リミナルで在ること

2026 - 10 - 7

ずっとリミナルスペースで暮らしてる。

『バックルームズ』を2度観た

オモコロの原宿氏のXでのポストが端的に表している通り、「めちゃくちゃ寝れるがめちゃくちゃ良い映画」だと思う。
自分自身は寝ていないが、「寝れる」というのはポジティブにとれば「リラックスできる」ということであり、その点で深く同意できる。
リラックスできる空間の映画だ。
Kane版バックルームが大好きになってしまい、バックルームでの聖杯戦争のマッチを7回分考えるなどしている。
公開日当日に観に行ってからずっとこう。

リミナル読書

関連する、もしくは自分が関連すると思って読んだ書籍の話をする。

『ホラー映画のサウンドスケープ 〈否定の音楽〉論』

これは出版社もSNSで『リミナルスペース 新しい恐怖の美学』と共に勧めている1冊だ。
ダイエジェティック/ノンダイエジェティックサウンドを曖昧にさせることによって第四の壁を曖昧にさせ、観る→観られるの入れ子構造が我々の外にも広がっているように思わせる効果の話が特に面白かった。

『存在のさみしさについて 気分はどのように世界をつくるのか』

個人的に全編を通してリミナリティについて語っていたように思われる。
水族館についての話が特に好きだ。
この本ではどっちつかずの宙ぶらりんの状態の様々なパターンを「さみしさ」として見せてくれたが、その中でも水族館はかなり"リミナル"を感じる、と思うようになった。
水槽の向こうの分かり合えない存在としての水生生物は、襲ってこないだけでバックルームのEntityと同じだ。
自然での生存条件を違う形で再現した水槽も、自然にも完全な人工物にもなりえない中途半端な存在だ。

『楽園の子どもたち』

雑然とした古い映画館そのものにはリミナルスペース的な雰囲気はまったくない。
しかしここにいる何者かになりそうでならない、端的に言えば社会不適合者たちは彼ら自体がリミナルな存在であるような気がする。
社会不適合者には社会不適合者としての完成形があるのかもしれないが。
社会不適合者だからこそ未完成であるとして保留しておきたい気持ちもある。
自分自身が変わらないままでずっと望む状態の場所にいたい気持ちは映画『バックルームズ』のクラークとも似ている。

リミナルスペースとしての映画館

バックルーム全体で映画館をモチーフにしたLevelはとうにあると思われるが(Levelを採用しているタイプのバックルームはあまり好きではないので詳しくない)、それを抜きにしても映画館はそれそのものがかなりリミナルスペースだ。
では映画館のどこからどこまでをリミナルスペースであると考えられるだろう。
チケットもぎりを抜けた先、各シアターに繋がる通路はリミナルだ。
シアターも、何もかかっていなければ映画という異界の入口に面しているだけでまだリミナルだ。
劇場予告が流れている間、目的のものをお預けされている状態もリミナルではないか。
通路からシアターまでの全ての空間がリミナルスペースかもしれない。

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